皆さまこんにちは。先日、ある大学の先生の貴重なお話を伺う機会がありました。街の「夏休み勉強会」として年一回このような勉強会の場を開催しているそうです。昨年はコロナで中止で、私は今回初めて参加しました。今回は大学の先生による「私たちのコミュニティヘルス、在宅看護と老年看護」についてご講義下さいました。少しだけご紹介させて頂きます。本日はただの感想文となってしまいますが、お付き合い下さいますと嬉しいです。
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お話して下さった先生は卒業して大学病院にて5年間勤務、それも様々な科を経験され、その後実習指導の補助や皮膚科クリニックなど様々な経験を積まれた方です。訪問看護は振り返ると2年間というご本人の中の経歴では短い期間であったようですが、とても大きな経験だったと仰っておりました。しかも介護保険が施行された2000年の時です。
その中で印象的だったのが「当事者意識を持つこと」ということを終始仰っていたことです。個人個人のつながりが哲学、フィロソフィーとして根底にあると。恐らく、そこから看護教育(老年看護)について学ばれ現在の立ち位置にいらっしゃるであろう様子を伺い知ることができました。要介護者の在宅移行支援などに力を入れていて、「高齢者の主体性を尊重した看護」を目指しているとのことです。
お話を聞いて、逆に高齢者の主体性が尊重されていない現実もあるということに改めて気づかされました。私はずっと様々な病院や高齢者施設での給食提供に携わっていて、集団給食=個人の尊重(嗜好、個別対応)は物理的に不可能でした。以前の記事にも書きましたが「人・物・金・時間」がかかるものは、営利目的の仕事をしている以上出来ないものは出来ないのです。出来る範囲で努力し、それ以上の要望は予算を下さいと交渉するしかありませんでした。
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現在保険外にて高齢者宅の食事作りに訪問していますが利用者さんの好みに寄り添える食事作りが自由に出来ている時もあると実感があります。例えば煮付は濃い味付けが好きだ、逆に薄いのは食べたくないという利用者さんにそのまま濃い味付けで作って提供しますが、薄い味付けばかりを押し付けるのではなくその分野菜料理と海藻類ときのこ類も毎回食べてもらえるよう、他で私なりに考えて提供するようにしています。
病院や高齢者施設において制限のある患者さんや利用者さんは、一日塩分6g未満の、薄味料理を提供することが当たり前です。でも現在の私の場合は保険外での対応のため医師の指示を直接受けることはなく、利用者さんからの希望に沿って提供しているため(勿論医師からの指導の有無は確認しますが)、少しくらいは寄り添えているのかなと思っています。
お一人はそのような糖尿病を患っている濃い味付けを好む利用者さん、二人目は心臓を患っているいつも決まったメニューを食べる利用者さん、三人目は最近は訪問出来ていませんが、腎臓と心臓を患っていて便秘症でもあるため食事が摂れない利用者さん。三者三様ですがご本人たちの意向で食事を提供しています。
しかし今回のお話を聞いて、「高齢者の主体性を尊重した看護」について研究し知見を活かして学生たちにも教えているということは、逆に高齢者の主体性を尊重できずに医療従事者側の見解で看護をすることも実際問題としてあるということに今さらながら改めて気づかされました。
先ほどお話した腎臓と心臓を患っている利用者さんは、訪問看護も訪問介護も入っていますが食事管理については本人の自己主張も激しく見方によっては匙を投げているようにも見てとれます。食べてもらいたいものを食べてくれない、一日三食食べてくれない、酒の量は減らない、タバコの本数も減らない、それなら看取りに入るしかない…といった具合にも私には見えいます。もう少し寄り添うことで食事を摂ることも出来るのではないか、便秘解消に役立てる努力もあるのではないか、そんなことを率先してやれればいいのに、誰も何も言わず放置状態、言っても無駄だからと本人の好きに任せている…そんなように私には見えます。これは本人の主体性を尊重というよりも、プロとしての専門知識から離れているように見えますし、この方に限らず「こうした方がその人のため」といった対応がその世界の常識なのかもしれません。
この勉強会に高校生も一人参加されていました。その方の感想で「専門職の方と高齢者(患者)の方とギャップがあるという印象を受けました」と感想を述べられていて、とてもシンプルでとても胸にささる一言でした。看護する側と受ける側のギャップ、それこそが主体性を尊重するかしないか、という今回の勉強会のテーマです。
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2025年問題に向けて病院や施設での高齢者の受け入れ先が徐々に居宅に移行されています。私はそれを「国の財政圧迫」と「少子高齢化のための人員不足」を理由に国が居宅に移行させていると捉えていました。実際問題そうなのですが、でもこれは個人が「いつどこでどのように亡くなるのか」という意思を「住み慣れた自宅」と選択しやすくなったとメリットとして受け取ることができます。
実際に自分自身も、ふとした時によく考えます。もし平均寿命まで生きた時に、両親はすでに他界し姉妹も親戚もどうなっているか分からない。病院で死を迎えるのかまたは施設か自宅か、それともそれ以外の場所か…。その時は老衰か疾病か事故か…。目を背けるのではなくいつか来るその時を想像し準備をしておかなくてはいけない、とよく考えます。「終活」という言葉が身近になりましたが自分の財産、所有物、契約中のもの、これらをどうするべきか、どうしていくべきか、真剣に考えなくてはいけません。個人が責任を持って考えておかないと、死後に他人に手を煩わせたり迷惑をかけてしまいます。
話は少し逸れてしまいましたが療養中の個人の思い、人生観を大切にできるなら、そのような看護や介護が出来ると理想です。そしてそれを実践できるよう研究を積み重ねている先生方がいる一方で現実はずさんな看護や介護もあるということ。個人の思いを尊重することなく排泄ケアなどの身体介助が雑になったり「この病気にはこれがいいから」と食べたいものを食べさせてくれないという周囲のやり方は現実にあるということですね。「当事者意識というのは高齢者(患者)に対して看護・介護する側の「本気度」だ」ということを仰っていました。
先生が授業で「人と人がつなぐ地域社会」を創出するためにどんなことがあるといいかを学生に問うと、例えば「ストーマがあるから外出をためらう、そういった方にどこに対応型トイレがあるかをアプリで見える化し、そこを移動途中にルートを選択すれば、お出かけができるようになる」などの意見が出たそうです。また「カラオケが好きな高齢者にサークルのようなものを作って楽しむ機会を増やす」など、看護の勉強中なのに一昔前だったら「もっと看護の視点から出来ることを想像しなさい」などと批判されてもおかしくないような様々な回答が出てくると。既成の枠に囚われない発想で支援のセンスを磨いていってほしいと、先生のまとめでした。
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こんなことを言ってしまうと不謹慎に聞こえてしまうかもしれませんが、先日お世話になった方の御線香をあげに行った時のことを少しお話させて頂きます。前職にて現場訪問した時に、何故かいつもとても良くしてくれて、私にとっては殺伐とした会社でしたがその現場に行った時は息抜きというか癒されたというか、受け入れてくれているような気がしていつもホッとしていました。
そこの責任者の方が長年その現場を支え続けて、2年前に引退されました。引退後は出かけたりおいしいもの食べに行ったりしようね、などとパートさんたちとお話されていたそうです。しかし引退して間もなく病気が発覚し、余命宣告を受け、そして先月亡くなりました。
その方の子供夫婦は離れた所に住んでいましたこともありその方を元職場の方々が毎日のように交代で様子を見に訪れたり食事を持ってきたり時には外来受診や入退院のたびに2つ先の市まで送り迎えをしたりしていました。最期の頃には自分でまともに歩けなくなりトイレやお風呂も人の手を借りないとならない状態であったそうです。それも、そこの職員さんの息子さんや身近な方々が介助されたり全て人望から来る人助けだけで成り立っていました。
現代ではそんなこと考えられません。身内や親戚で出来ないから介護保険で専門の人が対応したり私のように保険外で自費で他人のお世話になったり。私の今関わっているこの保険外の企業は「近くの人たちがおじいちゃんおばあちゃんを支える」というコンセプトでコミュニティを広げ、困ったときにお互い様で助けられる仕組み作りを地域で成り立つようにと輪を広げています。しかし利用する人や手助けをする人が増えれば増えるほど問題や課題も増え、地域でのコミュニティ作りの難しさを実感しています。それでもとても良い事業と思うので課題については改善点を考え、その上で困っている人たちが少しでも気持ちよく解決していけるように制度やサービスを整えていけたら、そしてそれが全国に広がれば、こんなに素敵なことはありません。
私のお世話になった方の最期があまりにも理想的過ぎて、羨ましいだなんて当事者たちの前ではそんなこと言えませんが(周りには言えない苦労などもきっとあったかもしれません)その方の場合は人望があったから最期も人望だけでこれだけ多くの人が支えて最期に好きな街で終わりを迎えたのかと思いますが、そういう個々の思いを尊重した最期の迎え方ができるような地域づくり、サービスが出来ると良いと思います。
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この勉強会の時に「アクションリサーチ」という言葉を初めてききました。「PDCサイクル」と同じ意味合いかと思ったのですが、プラン、実行、チェックを繰り返して成功に近づけていくことと少し異なり、いいなぁと思ったのは課題を解決するために研究者と実践者が共同して行い「時系列がらせん状に進み良い方向に未来に向かっていく」ということです。ただぐるぐる回ってブラッシュアップしていくPDCサイクルと違っていて、図式でのイメージが明るいように感じられました。感覚で表現しずらいですが、PDCサイクルもより良くしていくことには変わりませんが、同じ状態をきわめていく、ノーミスで成功させるようにぐるぐる繰り返すイメージに対してアクションリサーチは「トライ&エラー」の未来に向かっていくイメージと言いますか、ベクトルの向かう先に希望が見える感じがします。何事も、そう進むといいなぁと思います。
最近仕事で知り合った方で「素直に受け止めてみる」「みんなで考える」「間違ったら謝る」そんなチーム作りをしたいとお話されていました。本当にその通りだと思います。前職では真逆で常に誰かが誰かを批判しやりたがらない仕事は押し付け合い、謝ることも褒めることも無い会社(と私はそう感じていました)でしたので、思うことはあっても目指すゴールとそこにその思いが同じならきっと進んでいけると思います。
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私は病院や施設などの集団の場で関わることをしてきたため特に給食では患者さんや利用者さんと一対一で接することはなく、それどころか顔も分からない方に食事作りをしていましたので、居宅での個々の関わり合いをとても嬉しく感じています。これまで対応できなかった「個別対応」が出来ていることに当時よりも少しは寄り添えているかもしれないことで自分らしい生き方のお手伝いがこれからも出来たらと思います。その上で管理栄養士職の知識を織り交ぜていければと。
先ほど少し触れた方ですが、便秘症のせいで便が出ないと言いますがそれ以前に食べてないから出るものも出ません。しかし下剤を飲んでトイレから離れられないために外出できず、動かないからお腹もすかないし筋力もどんどん落ちているという悪循環を何とかしてあげたいとも思います。排泄機能がどれだけ人間にとって重要かを思い知らされています。食べるものの選び方次第で健康を維持できるか、外出不安から寝たきりに繋がるか、薬以外にも予防の段階でも力を入れられる活動が出来ればとも思っています。
さいごに、「終の棲家」がどこか。誰とどこでどう過ごして、最期をどう迎えるか。私の身近な人や親戚、友達、自分事としては個々にふと思うことはあっても誰かと話をして意見を交わすことはあまりありませんでした。考えて言葉にしてみるところから始めたいと思います。
本日はまるでただの夏休みの感想文のようなまとまりのないものになってしまいましたが、最後までお付き合いくださいまして、有難うございました。